【過去の自分に物申す!その2】常識的な考え方をやめろ!枠にハマるな!
こんばんは。カワりもんです。
ちょっと訳あって名前を変えました。www
Twitterに合わせることにしました。ご承知を。
過去の自分に物申すシリーズ第2弾は
過去に『常識的な考え方をすることが、癖になっていた自分』への物もーーす!!
1.協調性のある自分
昔の私は、協調性というかみんなで当たり障りのないように、揉めないように争わなくていいように自然と行動していました。
それがベストだと思っていたし、衝突のない平和が一番だと本気で思っていたのです。
なので昔は、みんなと意見がよく一致していました。
普通はこうだよなとか、これが当たり前だよなとか。
相手の話はよく聞いていましたし、人に対して興味があったので(←過去形w今もありますよ!)その人を本気で理解しようとしていたのもあります。
普通に過ごしていれば誰ともぶつかることもなく、熱く意見を交わし合うでもなく。
相手を理解することに努めていたという、その点では昔の自分を褒めてあげたいです。
2. 少しずつ「変わり者」になっていく
でもそれは少しずつ変わり始めます。
大衆の意見とは違うことを思うようになってきたのです。
発言すると反感を買う。
なんかちょっと悪者のような雰囲気になる。
付き合いが悪いとか、色んな言葉を浴びせられるようになります。
妻ともそれで喧嘩になることが多々ありましたw
色んなことを想う中で、だんだん俺だけが変わっているみたいな感じになってきたのです。
自分では常に物事に色々な疑問が湧いてきて、本質を理解しようとした、ただそれだけのことだったように思うのです。
通説を疑わず、本質を見る前に目の前の現象だけで物事を判断する。
周りがそんなふうに見えてきました。
「なんでだ?なんでもっと疑わないんだ?」
そんな風に感じ、不思議でたまりませんでした。
3.常識の枠の狭さに気付く
最初は違和感を覚えました。
「変わってるよねー」
と言われたことがあるのです。
なんかすごく嫌な言葉だなぁ。と単純にそう思ったのです。
みんなと違うのかぁーと。
でもだんだんと、その想いも変わってきました。
今の常識的な日常から、別の場所へ行きたいから頑張っている。
だったら非常識な方が有利なのではないかと。
そして世の中に、この間違った常識や通説がたくさん溢れていることに気付きました。
小さなカゴの中にバッタを入れ、一切外に出さずに育てると、バッタは「自分が生きている世界は、このカゴの中の高さしかない」と錯覚し、カゴの天井の高さまでしか飛べなくなる。
これは有名な話ですが、私たち人間にも同じことが言えると思います。
そして、あまりにも自然とそのカゴの中にいる人が多い。
いや、カゴの中だとは思っていない。
むしろ、「誰がカゴの中におんねん」ぐらいにバカにするなよと言わんばかりに自分は正しいと主張する。
常識の枠に囚われているということは、常識の枠の中でしか生きていけない。
この世の中は常識の枠の中に収まる方が、利口だということを前提に成り立っているように思います。。
枠から外れた発言をしたり、ありえない斬新な発想をしたってネットで叩かれる時代ですから。
4. 小学生の夢
ぼくは大人になったら、世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。
世界一になるには、世界一練習しないとダメだ。だから、今、ぼくはガンバっている。今はヘタだけれどガンバって、必ず世界一になる。
そして、世界一になったら、大金持ちになって、親孝行する。
Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれて、ヨーロッパのセリエAに入団します。
そして、レギュラーになって10番で活躍します。一年間の給料は40億円はほしいです。
プーマとけいやくしてスパイクやジャンパーを作り、世界中の人がこのぼくが作ったスパイクやジャンパーを買って行ってくれることを夢みている。
一方、世界中のみんなが注目し世界中で一番さわぐ4年に一度のWカップに出場します。
セリエAで活躍しているぼくは日本に戻りミーティングをし10番をもらってチームの看板です。
ブラジルと決勝戦をし2対1でブラジルを破りたいです。
この得点も兄と力を合わせ、世界の強ごうをうまくかわし、いいパスをだし合って得点を入れることがぼくの夢です。
この、本田圭佑選手の将来の夢みてください。小学生の常識を超えている。
実際に叶えちゃってるからすごいなーって今ではそうなります。
けど当時はどうでしょう。
多分ほとんどの人が「かわいいなー」とか「ませてるなー」と思って終了だと思います。
常識的に考えると、こんな具体的なレベルの高い夢、大人が叶うと想うこと自体が不可能ですもんね?
本人以外、本気で叶うと思った人間が、その当時周りに何人いたでしょうか?
常識では考えられない「非常識な夢」は本人以外、誰も本気で叶うなんて思わないんです。
周りは自分のカゴ(経験値からの常識の中)にいるから。
目の前のあなたが発言することが、夢のまた夢にしか聞こえずに、どこか遠くの誰かしか、成し遂げることが出来ないことのように聞こえるんです。
だから、その常識的な考え方に汚染されてはいけない。
言い換えれば、常識を超えている思考は、他の誰にも理解されなくていい。ということ。
思い出してみてください。
小学生の頃の卒業アルバムの「将来の夢」のページには現実には叶えることが難しいであろう夢で埋め尽くされていたこと。
それが素直な気持ち。それこそが素直な自分なのではないでしょうか。
それが、いつしか高校を卒業したら進学して、就職活動をして可能な限りいい会社に就職する。
そして、親元を離れ一人前になることを目指して毎日同じような服を着て出社し、同じような毎日を過ごし、車を買ってマイホームを買って、周りに負けないようにと必死になって70歳近くまで働く。できれば、役職がどんどん上がりながら。
そんな『常識の枠』に自然と収まっていく。
そして、それが大衆と同じであり、役職なんかもついてきちゃってるもんだから、カゴの中だとは気づかない!
そこまでいってしまうと、取り返しつきません。
死ぬ前に気づいても遅い!
5. 日常の常識を疑え!
ちょっと話逸れますけど、僕がいつも不思議に思うこと。
都内の駅などでエスカレーターに並ぶ行列を見ていると、「本当に!?」と思います。
ご存知の方も多いでしょうが東京(関東?)では基本的にはエスカレーターの左側に列を作って立ち、右側は空けられています。
急いでいる人の為なんでしょう。。
もうそれはそれはみんながあたかも法律でもあるかのように、綺麗に並んで左側だけに乗ることを何の迷いもなく行なっています。
そして、その空けられた右側を歩きながらエスカレーターで上がる人たちが登っていきます。
みんな、急いでないしそれでいいならいいんですけど。
なぜ、左側一列に並んでるのかと。
一列に並ぶことによってエスカレーターの運搬能力がめちゃくちゃ減ります。
ほんで一部の急ぎたい人のために、ご丁寧に右側を開けている。
右側に歩きながら登る人がいたって、運搬能力は2列乗りのほうが遥かに高いでしょう。
この全体の動きが効率を悪くして行列を作っている事実。
さらに駅のホームではエスカレーターの左側に階段があるにも関わらず、同じようにホームに溢れるほどの列を作ってまでかたくなに「左側一列乗り」を実行します。
「エスカレーターは2列で乗って、急ぎたい人は階段登れば一番効率がいいのに。。」
シンプルにそう思います。
そのほうがみんなで早いんです。
どーでもいい例を出しましたが(笑)私にとってはこれも不思議現象の一つなのです。
このように、
常識とは、過去の凡人が作り上げた間違った美徳(または平均値)
であることは、もう間違いありません。
常識を疑って、常識的な考えをする癖をなくし、世の中の枠にハマることを避けていきたいものです。
6. 日本人の「協調性」が仇となる
このような、常識の中に当たり前に生きるのは日本人特有なのかもしれません。
日本人は周りとの協調性を大事にし、「和」を重んじます。
それは、学校教育の頃から、自然と身体に染み込まれているような気がします。
集団生活において、協調性を大事にすること。
それももちろん必要なシーンも多々あります。
日本の教育にとって、ごく当然のことです。
それは日本にとっての良いところでもあります。
子供の頃から、
「こうしなさい」
と学校や家庭で言われていたとします。
それが大人になったらどうでしょうか?
「個性が大事」
なんて言われるんです(笑)
おいおい!みたいな。
空気を読めとか個性をだせとか、なんやねん!と。
または
「あなたはどうしたいか」
を求められます。
「こうしなさい」
が必要な場合もあるかもしれない。
けれど、そうでない場合は
「どうしたい?」
と自分自身で考えて答えを導き出す。そんな個性が生きるような教育ができればと思い、私自身は子どもと向き合う際に意識しています。
日本人特有の教育を受けてきた私たちは、
周りとの協調性を大事にし
人に気を使ってろくに仕事も休めずに(有給消化率の悪さ。あと、なんか知らんけど周りが有給使わないしそもそも休んだりとかしないw)
群れから離れて、個性的な事にチャレンジする事自体が異次元な感じがする。
その結果、お金儲け=悪のような変な風潮もある。
要するに、常識の範囲の中でみんなと共に助け合いながら、身を粉にして一生懸命働き、自己肯定感か自己満足感か分からないそのあたりの感情をを満たして生きていく事に何の疑いも持たないまま。。
の人が多くいるのではないでしょうか。
日本の協調性の文化や「助け合い精神」も日本人として誇るべき民族性ではあります。
社会に出てからも、協調性が大事な部分も多々あるでしょう。
しかし、多くはその「常識」でありその「通説」を疑う必要があると感じています。
会社を辞める時にこんな言葉をかけられたことがあります。
「今、みんなで頑張っている時にお前はそれでいいのか?」
会社の成長のために、会社を守るために、こんなに試行錯誤色んなことをみんなでやってきた。
その途中で、お前は逃げ出すのかと。
情に訴えるその言葉に多くの人は思い悩んだり立ち止まったりすることもあるかと思います。
しかし、私はこう答えました。
「この会社に残り、この会社の為に時間と労力を割き、社長の愚痴を言いながらこの会社の為にこれからも頑張る。みんながやっているんだから。その選択をしているあなたは正気か?」と。
その当然のように「他人の軸」で仕事をしている人達が不思議にみえていました。
ここまで読んでくれた人は、恐らく私と同じように不思議に見えてきませんか?
そして、その無意味な協調性のせいで無意味な残業していたり、協調性のために我慢してその場所にとどまり、みんながやってるからと本来の本質とはかけ離れた無駄な努力をしている人に対して、
みんなより努力している とか
だれよりも頑張っている とか
辛いのにすごい とか
もてはやしたり、祭り上げる風潮があるから、まさに愚の骨頂。
常識の枠の中に閉じこもり他人の時間を生き、他人の軸で自分の居場所を決めていることに他ならない。
それよりも、
常識から一歩外に出て、自分のプライベートを大切に自分の時間を生き、自分の軸で自分の居場所を決めることができる
ことの方がよっぽど賢いと、どう考えても思うのです。
少なくても私は、大人になってからその考え方にシフトするまでの期間は、本当の意味での幸せを感じなくなってしまっていたのだと今では感じています。
だからこそ、昔の自分にいいたい。
早いうちにその『協調性を重視した、常識的な考え方を捨てろ!』と。
7. 自分の軸で生きていく為に
自分の軸で、自分の時間を主体的に生きる事を私自身は強く推奨しますが、それほど簡単なことではありませんでした。
簡単です。
と言い切りたいところなのですが、私にとっては少し努力が必要でした。
自分の軸を生きていく為にはまず、自分がどこで(Where)、誰と(Who)、何を(What)していて、どのような(How)人生を送っているのかを定義する必要があります。
そうです。自分を知る必要があるのです。
追いかけていた夢が一度終了した私には、そこから「自分を知る」というところからのスタートだったのです。
私にとってはと言いましたが、私のように自分のことを根底では知らないという人も多いような気がします。
そんな人はまずは自己分析です。
自己分析といってもそんなに肩肘張らずに、自分と向き合う時間を確保して、自分の好きなことだけをノートに羅列すること。
それだけでも見えてくることがあると思います。
周りとの協調性や周囲の目。金銭的な壁や社会人や大人としての体裁などもすべて捨てて。
本当に自分の好きなことだけを書き出していく。
そうして私は自分と向き合いました。
私はそれに加えて、下記の本の巻末にある自己分析の質問に答えていきました。
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そして、その自己分析の質問で、小学生の頃に得意だった作文のことを思い出したのです。
それが、書くことを始めたようと思ったきっかけなのです。
そしてそれはのちに、twitterやブログを始めることとなります。
これは、自分と向き合ってこの自己分析の質問に答えていなければ決して、形にならなかったことでしょう。
最後に
今回は、『常識的な考え方をすることが、癖になっていた自分』
要するに周りとの協調性を重視するあまり、自己主張も程々に八方美人だった、過去の自分へのメッセージでした。
この世の中、人の顔色を伺いながら、仕事をする方が楽だし、人付き合いの面では当たり障りのないことかもしれません。
しかし、「常識の枠」から出るということは、明らかに「常識の枠」の中では感じられないものがあると確信しています。
コツとしては、色んなことを疑うことからです。
こう言うとすごいネガティブな言葉に聞こえますが、まずは疑うことから。
本質を見極めるために。なぜ?なぜ?を繰り返す。
私は、ニュースすらいつも疑っています(笑)
まとまりのない長い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!